接触

文学、本、映画、絵画の話をしようと思います。あとは日記ですね

電柱

(ツイッターとかSNSやってるとなにか発信しないと自分が消えちゃうような気がしてなんの意味もないことポストしちゃうけど本当はそんな不安感じないくらいリアルの交友関係や孤独の中で言葉を練るのに力入れなくちゃいけないんだろうな、でももう今日は頭が動かない。昨日も一昨日も。)

あしたは朝日で目を醒ましたい

今日はひさしぶりに一日中お腹や頭の中がドブねずみ色のどんよりした粘着物で凝り固まったみたいな気分だった。パイナップル食べ過ぎたときみたいな少しピリピリした感じが頭には溜まってて、お腹はすこし熱い。小学生から高校生の時までは週の半分くらいそんな気分だった気がするけど、大学生になってから少しずつ減っていって恋愛をしている時なんか多分ほとんどなかった。手持ちぶさたな時にしかならないんだと思う。そういえば一日中こんな気分なのはひさしぶりだ。お菓子と電気暖房が原因なんじゃないかと割と本気で思っている。電気は人体に悪影響を及ぼすのだ。僕の家には主食的なものはないことが多い、でも金を払ってご飯を食べるのはいやなので小さい頃から空腹を埋めるためだけにお菓子を食べ続けている。最近ご飯を食べていて楽しいなと思うようになったけど同時にあんまり美味しくないとかこれは美味しいとかも思うようになってしまった。この変化は空腹を満たすのには不都合だけどこれを機会にそろそろ飯に金を払ってみようと思う。料理もポトフ以外作ってみよう、あとこんな気分の時には海とか知らない場所に出かけなきゃね。そうしないとずっとこの気分のままだね
寂しいと人と話したくなるけどそういう時に人と会うとずっと自分の話をしてしまって帰った後ずっとそのことで頭をかかえる(実際に頭をかかえているわけではない)ことになるので自分で気分を塗り替えていけ、と自分に言い聞かせるのであった。

コンビニのバイト

夢でね、バイト中にかずきくんが来たの。コンビニで働いていた昔の恋人が、デートの最中歩きながらそんなふうに話してくれた。

「かずきくんに会えてすごく嬉しかったけど、隣に知らないブサイクな子供が立ってて話しかけづらくて。しかも電気代の支払いとかからあげとか肉まんとか、めんどくさいものばっかり注文してきてね?それで…」と話を続ける彼女は、それに気づかないふりをしながら、膨らみつづける苛立ちと不安を、ちょうど眉間と額のあたりに溜めこんでいた。

比喩に富んだ夢だね。喉から絞り出した弱々しい声でとりあえず沈黙を埋めた僕は、彼女がいま無かったことにした違和感みたいなものを、2人のうちのどちらかがいずれ狂ったようにぶち壊すんだろうと思った。結果として、狂ったのは僕だった。あくまで結果として。

大槻香奈さんの個展「生の断面/死の断片」、そしてけして失われることのない過去

はじめて大槻香奈さんの実物絵にふれて、衝撃を受けました。見てきました、とは言わずに、ふれました、と言わざるをえなかったのにはもちろん理由があります。

 

はじめに、一般論で恐縮ですが、何か新しいものを受け入れる時には、しばしば時間が必要です。食事にしても、勉強にしても、絵画鑑賞にしてもそうです。
自分のいま携えている理論をいくら延長させても、私はその理論の先に大槻香奈さんの描いた絵を再び見いだすことができませんでした、朧げにすら。
しばらく地下一階の会場を歩きつつ「存在と時間」という作品の前ではっと気づいたことがあります。大槻香奈さんの絵の前では「遠い」や「近い」といった私の距離感覚が機能しない、ということです。「遠い」「近い」というのは、自分と絵の世界との距離はもちろん、作品のなかで交錯している異なる時間軸の間の距離も。まったく知らない家族のはずなのに抵抗も親和も感じませんし、作品のなかで中心のように思える空間が切り裂かれたように、割れたように現れた異界には敵意も不安も感じません。ただ、「ここに」「ある」気がするのです。

 

会場に漂う、しそやヒノキだったでしょうか、花の香りが鑑賞体験の次元を複雑にしつつ、香りそれ自体の存在は不確かさをほのめかしています。
しかし、ギャラリーの滞在時間が長くなるにつれ、あの場の空気を吸い続けるにつれ、絵の空間の中に自分が生きているのだという感覚が強まります。あの場に身を置いていたからこそ、次第に信じられるようになった自分の身体感覚と、接触の感覚がありました。ぜひ、まだ展示にいらっしゃっていない方は、この身体感覚の変革を味わうことをおすすめいたします。


結局のところ何が描かれているのか、といわれれば、私は頭を抱えてしまうでしょう。絵の中では全てが変わりつづけていて、全てが混ざりつづけているのです。

 

ところで、変わるということは恐ろしいことです。それは未来を何が起こるのかわからないままに受けいれるということですから。
大槻香奈さんの描く「家」では、すべてが変わりつづけていながら、現在と過去が混在しています。過去は変化によって失われてしまったわけではなく、まるで現在といっしょくたにされている。過去を憎み、現在に生きる、といったハキハキとした冷たいまでの決意はありません。まるで、いまにも全てが愛され、許されようとしているかのようです。そこでは未来すらも、恐れるものではありません。

「何も失われていない」という確信にはすべてを包んで許してしまうあたたかさがありますが、何かを見まいとする冷たい切り捨ての脅迫に慣れていると、そのあたたかさに気付くまで少しばかり時間がかかります。

ですが、そのゆるやかな時間こそが、選択と決断の厳しさを、未来と現在と過去をいっしょに受け入れてしまうおおらかさへと、転じさせる起点になるような気がしています。どうぞ無駄とは言わず、ゆるやかな受動性にいちどは身を任せてみるのはどうでしょうか?