接触

文学、本、映画、絵画の話をしようと思います。あとは日記ですね

大槻香奈さんの個展「生の断面/死の断片」、そしてけして失われることのない過去

はじめて大槻香奈さんの実物絵にふれて、衝撃を受けました。見てきました、とは言わずに、ふれました、と言わざるをえなかったのにはもちろん理由があります。

 

はじめに、一般論で恐縮ですが、何か新しいものを受け入れる時には、しばしば時間が必要です。食事にしても、勉強にしても、絵画鑑賞にしてもそうです。
自分のいま携えている理論をいくら延長させても、私はその理論の先に大槻香奈さんの描いた絵を再び見いだすことができませんでした、朧げにすら。
しばらく地下一階の会場を歩きつつ「存在と時間」という作品の前ではっと気づいたことがあります。大槻香奈さんの絵の前では「遠い」や「近い」といった私の距離感覚が機能しない、ということです。「遠い」「近い」というのは、自分と絵の世界との距離はもちろん、作品のなかで交錯している異なる時間軸の間の距離も。まったく知らない家族のはずなのに抵抗も親和も感じませんし、作品のなかで中心のように思える空間が切り裂かれたように、割れたように現れた異界には敵意も不安も感じません。ただ、「ここに」「ある」気がするのです。

 

会場に漂う、しそやヒノキだったでしょうか、花の香りが鑑賞体験の次元を複雑にしつつ、香りそれ自体の存在は不確かさをほのめかしています。
しかし、ギャラリーの滞在時間が長くなるにつれ、あの場の空気を吸い続けるにつれ、絵の空間の中に自分が生きているのだという感覚が強まります。あの場に身を置いていたからこそ、次第に信じられるようになった自分の身体感覚と、接触の感覚がありました。ぜひ、まだ展示にいらっしゃっていない方は、この身体感覚の変革を味わうことをおすすめいたします。


結局のところ何が描かれているのか、といわれれば、私は頭を抱えてしまうでしょう。絵の中では全てが変わりつづけていて、全てが混ざりつづけているのです。

 

ところで、変わるということは恐ろしいことです。それは未来を何が起こるのかわからないままに受けいれるということですから。
大槻香奈さんの描く「家」では、すべてが変わりつづけていながら、現在と過去が混在しています。過去は変化によって失われてしまったわけではなく、まるで現在といっしょくたにされている。過去を憎み、現在に生きる、といったハキハキとした冷たいまでの決意はありません。まるで、いまにも全てが愛され、許されようとしているかのようです。そこでは未来すらも、恐れるものではありません。

「何も失われていない」という確信にはすべてを包んで許してしまうあたたかさがありますが、何かを見まいとする冷たい切り捨ての脅迫に慣れていると、そのあたたかさに気付くまで少しばかり時間がかかります。

ですが、そのゆるやかな時間こそが、選択と決断の厳しさを、未来と現在と過去をいっしょに受け入れてしまうおおらかさへと、転じさせる起点になるような気がしています。どうぞ無駄とは言わず、ゆるやかな受動性にいちどは身を任せてみるのはどうでしょうか?