接触

文学、本、映画、絵画の話をしようと思います。あとは日記ですね

時計屋

 遅刻魔の汚名を返上するべく今日こそはと、移動時間を15分ほど多く見積もったまま玄関のドアノブを握る。18時45分に到着するにはあまりにも早く家を出すぎたような気がして、すべての遅刻魔を常習的な遅刻へと駆り立てるあの「不気味さ」に似た、時間通りであることへの不安をかかえた僕は、駅前の古い眼鏡屋に向かった。どのくらい古いかというと、その眼鏡屋は僕が生まれた頃からある。つまり眼鏡屋は23年間以上、JR京浜東北線川口駅から150mほど離れた60畳のコンクリの上に、80年代チックなデザインの電光看板を引っ掛け続けているのだ。ガラス製のドアにはA4のチラシがちょうど僕のへその位置くらいに貼り付けられていて、虹色の安っぽいフォントで「時計の修理受け付けてます」とプリントされている。まあ、その眼鏡屋が時計の修理自体受け付けていたのは以前から知っていて、(なんせ僕は、この眼鏡屋の前を17年間ほぼ毎日通りすがり、その度ショーケースに目をやっているのだから)あまりに見慣れてゲシュタルト崩壊しかかってる文字列を載せたチラシを視界におさめながら、僕はちょうど自動ドアの手前30cm、中央にその身を運び切ることに成功した。

 眼鏡、じゃなかった、時計の修理には10分もかからなかったのだが、修理屋のおっちゃんは「この腕時計はかなり古いので、生活防水機能が切れてます。だから夏場の汗にも気をつけてください。」と慎重かつ、利用者の不満を回避するために重要な提言を、たかが学生の僕に向かって差し出した。おっちゃんは僕の前で、バンダナほどの大きなクロスで何度も修理を終えた腕時計を拭く。実際のところ、時計屋というのは有史以降地球上に存在する中で、もっとも魔法使いに近い仕事だ。おっちゃんのストロークには間違いなく玄人の魔法使いのそれと同等の熟練したテクニックが秘められていて、僕の腕時計はクロスで拭われるたびに輝きを増す。ルビー色の文字盤とシルバーのブレスレットを見つめるたび、僕はいまでも強烈な魔法に魅了されてしまい、肝心の文字盤に焦点が合わないことがたびたびあるくらいだ。世界で一番僕をワクワクさせてしまう魔法のかかった時計をつけた僕はあまりに有頂天になって、とびきり飲料が安いスーパーへと足を伸ばし、200mlのアップルジュースを税込54円で買ってしまった。魔法が僕の身体に馴染んだ頃にはちょうど、今から電車に乗って待ち合わせ時間より5分遅刻するくらいの時間になっていた。