接触

文学、本、映画、絵画の話をしようと思います。あとは日記ですね

わかりうるという安心から距離を置くために

 「今日の飲み会では自分の話ばっかりしちゃったな、どうして落ち着いて人の話を聞けなかったんだろう」とか「自分の話を理解してもらうためにわざわざ用意したはずの例え話なのに『よくわかった』っていう得意げな聞き手の顔を見ると、なぜかモヤモヤしてしまう」だとかいった、僕個人の日常にはりつく等身大の葛藤が「自意識過剰」「他者」という抽象語のもとに、人々があまねく共有していることを前提とした普遍的な認識へとすり替わっていく。

 つまるところ抽象的な言説とは、ひとりひとりの視点に基づいて別個の体験に生きる人々が、孤独と苦悩に荒んだ心を癒すために創り出した、共同の休息地なのだ。孤独のうちに葛藤を抱え込むことに耐えきれなくなった多くの人々が安息の地に選んだだけあって、抽象の言説においては聞き手と話し手の「わかりあえなさ」を物語る深淵はもうすっかり姿を消してしまったかのようにみえる。 

 ところで、ここでもし読者が、この段落で繰り広げられた抽象的な言説に対し「それ本当かよ?」と懐疑のまなざしを向けたとしても、それは抽象のレベルで繰り広げられた言説内部の論理的整合性を訝しんでいるのであって、言説の内容それ自体が絶対的に「わかりえない」理解不可能な異物として読者の前に屹立しているわけではない。つまりあなたは、抽象的な僕の話を確実にわかりうる