愚行を犯すという自覚
僕は山口達也を批判する気になれない。だからといってそれを、ツイッターで口にする気にもなれない。
そして、僕はいつだって弱者の味方だなんて、つまらない常識人の嘘をつく気は、まったくない。あまりに俗っぽい動機を告白したところで、さっほく本題に入ろう。
そもそも、他人の色恋沙汰を会話のネタにするなんていうのは、愛の機微を忘れた、無垢で無粋な子供たちにのみ許された蛮行だ。僕たちはいつまでも子供ではいられない。
なぜなら僕たちはいつだってうつくしくありたいし、洒脱な軽さを忘れないでいたいからだ。子供はみな無粋だ。逆にいえば、無粋でなければ子供ではない。恋の機微を知ったときから、ひとは誰にも知らないまますこしずつ大人になる。
つまり、だ。芸能人のスキャンダルに正論をふりかざすなんて愚行は、誰も本心から望んでやることじゃない。
いまの僕には長々説教を垂れる時間はない。恋人と愛撫しあう時間はあるけれど。ここではひとまずこの世界を生き延びる僕たちが、うつくしく、洒脱な軽さをたずさえているために大切なことだけを、簡単に述べておくにとどめよう。
「どっちが悪くてどっちが良い。どっちが加害者でどっちが被害者」なんて物言いは、言うまでもなく無粋だ。だけど僕たちは、気づかないうちに無粋で醜くなってしまうから、ひとり思いつめるための静寂を、ひとりだけの夜に、こっそり大事にしておかないといけない。
白黒をつけて外野から一家言を述べたがる真面目な人々がこの世界には腐るほどいる。だからこそ僕たちにはみんな、静寂のなかに秘密をもつ権利がある。ドアを閉めて、椅子にかけよう。いうまでもないが、そこに音楽はいらない。
ひとりきりの静かな夜。それこそ、この世界を生き延びる僕たちがうつくしく、洒脱な軽さをたずさえているために、ただひとつ必要なものだ。